定年モンキー

定年退職後の生活についてのありのままの雑記

全国一の宮巡り 大阪・坐間神社(令和5年2月13日)

〇 大阪の街の真ん中にある一の宮

 今日は、摂津の国の一の宮、坐間(いかすり)神社に参拝。一の宮巡礼の四社目。あいにくの曇天。
 大阪市の街の真ん中の地下鉄「本町」駅のすぐそば、御堂筋の少し西寄りに鎮座。周りは高層ビル等のオフィス街。訪れた時間が12時過ぎだったので、参拝するサラリーマンの姿も少なからず見受ける。

 

〇「いかすり」神社

 一の宮巡りを始めてみて、地元神戸等(摂津の国)の一の宮は何処かと調べてみた。残念ながら神戸等の兵庫県内にはなく、現大阪府内に二か所。そのうちの一つが坐間神社であった。 
 実は、これまで、不明を恥じなければならないが坐間神社の存在も知らなかったし、また、一の宮と確認して存在を知り得たときも「坐間」を「いかすり」と読むこともできなかった。
 神社からいただいた御由緒略記によれば、「坐間(いかすり)」の語源は諸説あるものの、土地又は居住地を守り給う意味の「居所知(いかしり)」が転じた名称と言われているとのこと。
 元々は現在の天満橋の西方の渡辺の地に鎮座されていたが、秀吉の大阪城築城に当たって現在地に遷座されたとのこと。渡辺の地名も現在地に引き継がれ、全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地でもあるとのこと。

 境内はそうは広くはないが、以下に記すように、落語発祥の碑、末社の陶器神社、ライオンの像等、見るべきものが多くあった。

〇 「上方落語発祥の地」の碑

 社務所の正面の西よりに「上方落語発祥の地」の碑があった。
 中央に文化十年(1813年)当時の興行番付の銅レリーフ、その左右に説明書きがある。
 江戸時代、それまで大道芸に近かった落語寄席を、初代桂文治が坐間神社内の現在のような屋内高座形式の興行に改め、その後、落語定席が多く設けられたが、昭和時の戦災で無くなってしまったが、平成に入り天満天神繁昌亭が設けられ、今日に継承されているとの説明である。原文は、下段にそのまま引用した。

 右側の説明書き、「大阪芸能懇話会長」の名前で
「中興の祖 初代桂文治
 初代桂文治は寛政年間(1789~1800)坐間神社境内に大阪で初めて寄席を建て 抜群の話芸で名人と称され上方落語繁栄の基礎を築いた
 それまで大道芸に近い芸能だった落語を室内の高座で演ずる現在の興行形式にあらためたのである
 ために 文治は上方落語中興と仰がれている
 文治の名称は三代目以降が江戸に移ったが 七代目文治の名が一旦大阪に戻り 初代文治を祖とする桂派の流れは大阪と江戸の両地で大きな勢力となって東西落語会の興隆を支えて今日に至っている」
とあった。
 左側の説明書き、「桂三枝(現桂文枝)」の名前で
天満天神繁昌亭への継承
 江戸時代後期 ここ坐間神社において初代桂文治が開いた咄の席が上方落語の寄席興業の始まりです 以降 幕末から明治・大正にかけて多くの落語の席が誕生し上方落語は飛躍的な発展をとげました
 昭和に入り 戦災等によって落語は定席を失いましたが 平成十年九月「天満天神繁昌亭」が開場 約六十年ぶりに落語専門の寄席が復活しまた
 ここに感謝と継承の思いを込め 初代桂文治の業績を顕彰し原点の証として「上方落語寄席発祥の地」の碑を建立します」
とあった。

〇 境内の陶器神社ほか

 境内の末社に陶器神社がある。
 区役所の広報サイト「大阪中心」によれば、
境内の西側には、陶器神社がある。火除けの神を祀リ、陶器商人の信仰が厚い。創建当初は西区にあったが、明治の終わリ、市電敷設の道路拡張のため坐摩神社の境内に移された。拝殿の格天井(こうてんじょう)には各地の陶芸作家が寄進した18枚の額皿が飾られている。」等とある


左右の灯篭は立派な陶器製。

 
 境内の塀際にあった狛犬像とライオン(?)像。

 参拝後は御堂筋を北上し、駅前第4ビル前の宝くじ特設売り場で、バレンタインジャンボを購入して帰路につきます。