定年モンキー

定年退職後の生活についてのありのままの雑記

一の宮巡り・三輪山登拝と三輪そうめん(令和5年5月15日)

大和国一の宮大神神社

 大和国一の宮大神神社参拝。
 かねてより御神体三輪山に登拝したいと思っていたが、コロナ禍、感染まん延防止のため2020年から登拝が中止に。
 しかし、2023年5月10日から登拝が再開され、早速、参拝。 

  月曜日の午前9時頃、拝殿前の参拝者もまばら。

 神官さん達の行列。これから朝の神事、一般参拝者も臨場可能、1時間くらいとのことだった。
 折角の機会だが、今日は三輪山の登拝が目的。少し残念ながらも見送り。

 

 御本殿を後にして、登拝口へ向かう。
 途中の祈祷殿前の「撫でうさぎ」。江戸時代中期から大神神社に伝わるとのこと(大神神社説明書による)。

狭井神社

 祈祷殿の脇から登拝口のある狭井神社への参道の「くすり道」。
 狭井神社は、三輪の神様の荒魂(あらみたま)を祭る神社で、力強い御神威から病気平癒の神様として信仰が篤いとのこと(大神神社説明書による)。
 

 木陰の「くすり道」を数分ほど歩けば、狭井神社の鳥居に到着。

三輪山登拝口】
 狭井神社の拝殿横が、三輪山登拝の受付。ここで申込書に記入の上、初穂料300円を納め、登拝許可の証となる白タスキが貸与される。

 

  

 登拝口、これより向こうは写真撮影禁止。この写真も神官さんに確認したところ、良いとは言えないが、黙認しますとのこと。

 入山前、登拝口前で、神官さんから簡単な説明がある。説明内容は、概ねこの神社の注意書きのとおり。

【登拝】
 さて、入山。以後は写真撮影できないので、神社からいただいた案内図を掲載。おおむねこのとおり。
 三輪山は、大神神社のご神体で、高さが467m・周囲16kmとのこと(神社の説明書による)。
 ゆっくりとしたペースで登ったが、登りに一時間余り、下りに一時間弱を要した。
 階段状に整備された登山道で、危険な箇所は無いが、何箇所かは急登となるところがある。
 また、案内図にも書いてあるが、ぬかるみが多い。特に、頂上近くになってからはひどいので、靴が汚れることは必至。水洗い可能な材質の靴とすることがベター。

 頂上にある高宮神社(こうのみやじんじゃ)と奥津磐座(おきついわくら)を参拝し、無事下山。
 下山時は、やはり、ぬかるみに足を取られないよう注意が必要。
 なお、下山後は狭井神社社務所脇に靴洗い場があり、ブラシも備え付けられており、助かった。汚れを落としただけでなく、入山前より、かえって綺麗になった。

 

【ご神水

 狭井神社のすぐ横には、「ご神水」を汲みいただける井戸がある。「薬井戸」といって、「万病に効くという薬水が湧き出る井戸」とのこと(神社の説明書による)。

  

 社務所では、500mlのペットボトルに入れて100円で販売されていた。市販のミネラルウオーターと較べれば。ご神体から湧き出て万病に効くという由来も併せて考えれば、割安の感。
 ただし、汲み取りは自由なので、私は手持ちのペットボトルに汲ませていただいた。

 【御朱印

 終わりに、全国一の宮御朱印帳に御朱印を頂戴した。

 

三輪そうめん

 参拝後の昼食は、桜井市を訪れた際には、いつも立ち寄る「三輪山本」へ。
 小綺麗な建物で、三輪そうめんの持ち帰り物販とレストランがある。店内も広い。

 定番かもしれないが、にゅうめん、柿の葉寿司。登山後でビールも追加。おいしい。

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山寺・辛みそラーメン(令和5年4月16日)

〇 山形県

 昨日に宮城入り。塩竃神社参拝しての翌4月16日。今朝は何とか曇り空で、予報では回復に向かうとのこと。
 今日は、隣県の山形県へ。目的は山寺と辛みそラーメン。

〇 山寺(立石寺

 天候も何とか回復。先ず、麓にある根本中堂にお参り。 

 

芭蕉奥の細道

 山寺で有名なのが松尾芭蕉が「奥の細道」で残した「閑かさや岩にしみいる蝉の聲」の句。

 

 根本中堂から山門(登山口)への道沿いに芭蕉曾良銅像と句碑。

 

【山門から奥の院へ】

 山門(登山口)。ここから奥の院・五大堂へ登っていく。

 

 

山門そばの桜並木。

 

芭蕉の句ゆかりの「せみ塚」

 

奥の院。ここまで登山口から石段が1070段とのこと。

奥の院を後にして五大堂へ向かう。桜がきれい。

 

【五大堂】

右の崖の向こう側が五大堂。手前左が開山堂。

五大堂

五大堂から麓を見下ろす。

五大堂を後にして下山。 

 

 下山後、麓の茶屋で名物の玉こんにゃく。

 

仙山線山寺駅



〇 垂水遺跡

 立石寺から徒歩で数分のところにある「垂水遺跡」。山寺を開山した慈覚大師円仁構想を練った場所とのこと。

 ちなみに、この慈覚大師は、山寺のほか、いずれも東北の名刹である松島の瑞巌寺・平泉の中尊寺も開山されたとのこと。

 山寺から垂水遺跡への途中の仙山線。線路沿いの菜の花。

 垂水遺跡

麓から見上げた山寺(左の方)、この右手の山中に垂水遺跡があると思われる。

 

〇 辛みそラーメン

 立石寺の参拝後は、昼食に辛みそラーメンをいただくために山形市内へ。山形赤湯ラーメンの「龍上海・山大医学部前店」。
 今回、山形を訪ねるに当たり、どうしても、この辛みそラーメンが食べたかった。以前、大阪で勤務していた際、天満橋の駅ビル内に山形ラーメンの店があり、そこの辛みそラーメンにはまっていたことがあった。
 そこで、本場の辛みそラーメンをどうしても食べてみたいとの思い。
 11時半頃に到着したが、既に10組くらいの待ち状態。地元の人にも人気があるようで、楽しみ。


 辛みその辛さもあるが、あっさりとした味噌味。天満橋の辛みそラーメンもおいしかったが、やはり本場はおいしかった。

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全国一の宮巡り 宮城・塩竃神社(令和5年4月15日)

〇 宮城への旅行

 数年前から次男が仙台勤務。次男の生活地に一度は訪れたいと思っていたが、ここ数年のコロナ禍で叶わず。状況改善されてきて、ようやく訪問できることに。久しぶりの孫との再会も。

 仙台方面への旅行は、東京での単身赴任時に一人旅して以来。当時の写真のデータを確認したら2009(平成21)年9月であった。14年ぶりの訪問となる。

 前回の一人旅時は震災前で塩竃神社と松島を訪れただけであった。
 今回、陸奥国一の宮である塩竃神社に改めて参拝したいが、そのほか前回は訪れることのできなかった沿岸地の石巻などにも訪ねてみることに。

 旅の前には、いつもながらであるが司馬遼太郎の「街道をゆく」を読み、旅の事前知識をにわか仕込みすることとしている。今回も、26巻の「嵯峨散歩、仙台・石巻」を図書館で借りて一読(一読ではなかなか頭に入らないので、二読目を往路の機内で読むことに。)。

 また、最近、各地の一の宮御朱印については、書置きしか頂戴できないところが多い。このため、一の宮専用の御朱印帳は少し大きめでかさばるし、わざわざ持参すべきかどうかを確認するため、塩竃神社に電話で問い合わせた。
 そうしたところ、御朱印帳に書き込んでいただけるとのこと。
「ただし、4時半までです。」と念を押された。これは、電話したのが午後4時頃だったので、電話当日、これから参拝予定だと思われたのでしょう。      
(雨の中、200段の石段を登り始めているのが次男と孫。14年前参拝時は晴天だった。)

〇 陸奥の国の一の宮塩竃神社

 次男の住まいは仙台近郊の多賀城市
 陸奥国一の宮である塩竃神社も、そもそもの創建の由緒は、近くに国府である多賀城の存在があったとのこと(同神社のサイト)。 

 塩竃神社のサイトから引用した御由緒の抜粋)

 当社は古くから東北鎮護・陸奥国一之宮として、朝廷を始め庶民の崇敬を集めて今日に至りました。
 鹽竈神社が発展してきた大きな要因に鎮守府としての国府多賀城の存在が考えられます。
 多賀城の地に国府が置かれると、その東北方向つまり「鬼門」に位置し、蝦夷の地に接していた当社が国府の守護と蝦夷地平定の精神的支えとして都から赴任してきた政府の人々に篤く信仰されたものと考えられます。
 その流れが今度は武家社会に入ると陸奥國総鎮守として一層尊崇を集めてきたものでしょう。

 塩竃神社の表参道近くで、多賀城から出向いてくれた次男・孫と落ち合い、神社へ。
 当日は生憎の本降りの雨。そのためか人影もまばらな表参道の200段の石段を登る。司馬遼太郎さんが、途中で息切れされたとの石段。

 

塩竃桜】
 今年の桜は東北も早かったとのこと。しかし桜はまだまだ残っていてありがたい。晴天下の桜はもちろん鮮やかだが、雨天時の灰色の中に鮮やかな桜色が目立つのも美しいし、風情ある趣き。


 塩竃桜は、国の天然記念物に指定されているとのこと。旅行前は不勉強で知らなかった。帰ってから旅サイトを見てみると、古くから歌にも詠まれた有名な桜で、例年ならば開花期は4月下旬から5月上旬とのこと。
 今年は、開花が早まっていることから、ちょうどジャストのタイミングだったよう。

 

【参拝】

 石段を登り切って御本殿にたどり着くと、雨の中、石段とは様子が違って多くの参拝客が。要は、駐車場が本殿と同じレベルの丘の上にあって、下から石段を登って参拝する参拝者は少数派だったということ。

 境内では、司馬さんが取り上げていた大阪商人(仙台藩の財政を立て直した山片蟠桃)が寄進したという石灯籠や、
 松尾芭蕉が「奥の細道」に記した「文治の灯篭」等を目の前にして、歴史に思いを馳せることもできた。  

 

 さて、御朱印は、事前に電話で確認したとおり、持参した「全国一の宮御朱印帳」に直接書き込んでいただけました。

 

〇 御釜神社

 塩竃神社の参拝後は、丘を下って市街地にある「御釜神社」へ。
 御釜神社は、松尾芭蕉司馬遼太郎も訪れたところ、ママさんによればパワースポットでもあるとのこと、当初からの必須訪問予定地であった。
 次男によれば、塩竃神社の表参道の石段は、降りるときは雨で滑って危ないとのことで、スロープになっている東参道をたどる。
 御釜神社は、東参道を降り切った鳥居前の道路をはんさんだ反対側すぐ、市街地の中にあった。

 
(晴天時の前回訪問時の写真)

 御釜神社は塩竃神社末社であり、古代、神事として製塩(海水を煮詰めて塩を採る)した場所とのこと、塩竃市の街の地名の由来でもあるとのこと。

【「御釜神社」について(塩竃神社のサイトより引用)】

鹽竈神社末社であり、鹽竈神社と同じ鹽土翁神を御祭神としてお祀りしております。
現在の御釜神社境内地周辺は、古来「甫出の浜」と呼ばれた浜辺で、御祭神により伝えられた製塩が行われた所と伝わっております。
芭蕉塩竈に訪れた際、この御釜神社にも訪れ、神釜を拝したことが奥の細道に記されております。
塩竈の地名の由来は、こちらの御釜神社に伝わる神話によるものです。

 古代の製塩に使用したという神釜も、初穂料(100円)をお納めして拝観させていただいた。


(神釜)

御釜神社の「神釜」について(塩竃神社のサイトより引用)

御釜神社には神釜と呼ばれる四口の鉄製の釜が祀られております。
この四口の釜は「日本三奇」の一つに数えられ、釜の中の水は溢れることも枯れることも無いとされ、江戸時代には変事ある時その前触れとして御釜の水が変わると言われました。

 初日は、残念ながら本降りの雨の中、早々に切り上げて仙台市内のホテルへ。明日は、山寺の参拝や、山形ラーメンを食べに山形へ向かう予定。
 ちなみに、山形県一の宮は、遠く秋田との県境・鳥海山近くにあるとのことなので、今回は断念。次の機会に。

全国一の宮巡り 大阪・坐間神社(令和5年2月13日)

〇 大阪の街の真ん中にある一の宮

 今日は、摂津の国の一の宮、坐間(いかすり)神社に参拝。一の宮巡礼の四社目。あいにくの曇天。
 大阪市の街の真ん中の地下鉄「本町」駅のすぐそば、御堂筋の少し西寄りに鎮座。周りは高層ビル等のオフィス街。訪れた時間が12時過ぎだったので、参拝するサラリーマンの姿も少なからず見受ける。

 

〇「いかすり」神社

 一の宮巡りを始めてみて、地元神戸等(摂津の国)の一の宮は何処かと調べてみた。残念ながら神戸等の兵庫県内にはなく、現大阪府内に二か所。そのうちの一つが坐間神社であった。 
 実は、これまで、不明を恥じなければならないが坐間神社の存在も知らなかったし、また、一の宮と確認して存在を知り得たときも「坐間」を「いかすり」と読むこともできなかった。
 神社からいただいた御由緒略記によれば、「坐間(いかすり)」の語源は諸説あるものの、土地又は居住地を守り給う意味の「居所知(いかしり)」が転じた名称と言われているとのこと。
 元々は現在の天満橋の西方の渡辺の地に鎮座されていたが、秀吉の大阪城築城に当たって現在地に遷座されたとのこと。渡辺の地名も現在地に引き継がれ、全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地でもあるとのこと。

 境内はそうは広くはないが、以下に記すように、落語発祥の碑、末社の陶器神社、ライオンの像等、見るべきものが多くあった。

〇 「上方落語発祥の地」の碑

 社務所の正面の西よりに「上方落語発祥の地」の碑があった。
 中央に文化十年(1813年)当時の興行番付の銅レリーフ、その左右に説明書きがある。
 江戸時代、それまで大道芸に近かった落語寄席を、初代桂文治が坐間神社内の現在のような屋内高座形式の興行に改め、その後、落語定席が多く設けられたが、昭和時の戦災で無くなってしまったが、平成に入り天満天神繁昌亭が設けられ、今日に継承されているとの説明である。原文は、下段にそのまま引用した。

 右側の説明書き、「大阪芸能懇話会長」の名前で
「中興の祖 初代桂文治
 初代桂文治は寛政年間(1789~1800)坐間神社境内に大阪で初めて寄席を建て 抜群の話芸で名人と称され上方落語繁栄の基礎を築いた
 それまで大道芸に近い芸能だった落語を室内の高座で演ずる現在の興行形式にあらためたのである
 ために 文治は上方落語中興と仰がれている
 文治の名称は三代目以降が江戸に移ったが 七代目文治の名が一旦大阪に戻り 初代文治を祖とする桂派の流れは大阪と江戸の両地で大きな勢力となって東西落語会の興隆を支えて今日に至っている」
とあった。
 左側の説明書き、「桂三枝(現桂文枝)」の名前で
天満天神繁昌亭への継承
 江戸時代後期 ここ坐間神社において初代桂文治が開いた咄の席が上方落語の寄席興業の始まりです 以降 幕末から明治・大正にかけて多くの落語の席が誕生し上方落語は飛躍的な発展をとげました
 昭和に入り 戦災等によって落語は定席を失いましたが 平成十年九月「天満天神繁昌亭」が開場 約六十年ぶりに落語専門の寄席が復活しまた
 ここに感謝と継承の思いを込め 初代桂文治の業績を顕彰し原点の証として「上方落語寄席発祥の地」の碑を建立します」
とあった。

〇 境内の陶器神社ほか

 境内の末社に陶器神社がある。
 区役所の広報サイト「大阪中心」によれば、
境内の西側には、陶器神社がある。火除けの神を祀リ、陶器商人の信仰が厚い。創建当初は西区にあったが、明治の終わリ、市電敷設の道路拡張のため坐摩神社の境内に移された。拝殿の格天井(こうてんじょう)には各地の陶芸作家が寄進した18枚の額皿が飾られている。」等とある


左右の灯篭は立派な陶器製。

 
 境内の塀際にあった狛犬像とライオン(?)像。

 参拝後は御堂筋を北上し、駅前第4ビル前の宝くじ特設売り場で、バレンタインジャンボを購入して帰路につきます。

全国一の宮巡り(播州・伊和神社)とカキオコ(令和5年2月20日)

 今日は、西播方面と岡山県日生へ。
 ママさん希望のパワスポ巡りとカキオコを食べること、それに加えて、播州一の宮の作用にある伊和神社の参拝。

〇 伊和神社

 播州一の宮である伊和神社は、兵庫県西播地域・宍粟市に鎮座。姫路から約40~50キロ程度北方にある。車で1時間程度の距離だろうか。
 神社の前には道の駅があり、そこに神社参拝の車も駐車することとされている。
 何も知らないときは、播州一の宮ならば、中心都市である姫路か瀬戸内海沿いの何処かにあるものかと思っていた。

 

 神社からいただいた「御由緒略記」によれば、御祭神は大己貴神オオナムチノカミ)。
大己貴神は国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、或いは医薬の方を定めて、治癒の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。
 大神は播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨国内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里(現在当社のある地方)に至りまして、我が事業は終わった「おわ」と仰せられて鎮まりました。ここに於て人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当神社の創祀であります。」とある。
 また、兵庫県神社庁のサイトによれば、「一説に、伊和の恒郷に「我を祀れ」とご神託があり、一夜のうちに草木生い茂り、空に多くの鶴が舞い、石上に大きな鶴が二羽眠っておりました。そこに社殿を造営した。」ともあった。
 御本殿の裏側に、上記二羽の鶴がいたという「鶴石」があった。

    
御本殿裏の神社創祀の言い伝えのある「鶴石」

 平日の夕方に参拝したこともあり、境内には誰もいない。このためか、御朱印を頂戴するため社務所に行くと、神官の方が少し慌てた感じで窓口に来てくれた。
 御朱印は残念ながら書置きだけ。折角の一の宮専用の御朱印帳であるから、直接書いていただければと思うのだが。
 コロナ対策かもしれないが、西国巡礼や四国巡礼なら必ず書いてくれるのだけれど。少し残念。

 

〇 カキオコ

 神社参拝等の前に岡山県日生のB級グルメで有名なカキオコ(蠣お好み焼き)を食べに行った。実は、今日のメインはここ。
 日生(ひなせ)は、岡山県でも、兵庫県との県境から2キロ程度のところ。お店は、これまで何度か来たことのある「たまちゃん」。
 訪問時間が昼食どきの12時半ころ。人気店なので混雑はある程度覚悟の上だった。
 しかしながら想像以上。三つある駐車場はほぼ満車。店の前の待合スペースには30人くらいの先客が・・・。結局、約1時間待ち。
 良く見るに来客の多くが我々と同じような熟年ペア・熟年グループ。時間のある熟年・高齢者層人口の一層の増加、これら高齢者層もいるので、平日だからと言ってそうは混雑は緩和されないみたい。皆、同じようにあえて休日を避けているので、平日でも集中するのだろう。

 注文は一番人気とされていた「カキオコ」の蠣大盛(250グラム)に。
 ここのお好み焼き、表面に天かす敷き詰めていてパリパリの食感がよい。しかし、今日は半生焼けの蠣が多過ぎたのか、余りパリパリせず。

 

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リタイア後の始めての確定申告

 確定申告とは無縁だったサラーリーマン人生。リタイアして遭遇した確定申告手続の覚え書き。

申告した最寄り税務署


【先ずはリタイア後の健康保険】

〇 1年前
 60歳の定年退職から5年間、再任用等により常勤による役所勤めを継続できた。
 しかしながら、65歳を迎えて役所の再任用も終了。昨年4月からは、本当のリタイア生活。
 当面したのが、それまで役所に実質・形式共に丸抱えで面倒を見てもらっていた手続。健康保険や税金(確定申告等)の手続。
 最初は健康保険から。昨年3月に再任用が終了するに際し、福利厚生担当の職員から、退職後の健康保険について打診を受けた。組織内の共済組合に退職後・任意継続加入するか、国民健康保険に加入するかの選択について。

 このときは、結論から言って、組織内共済組合の任意継続加入とした。
 理由は、保険料が国民健康保険より低額であったから。
 国民健康保険の保険料は、前年の収入をベースとする。このため、年金受給だけであればともかく、一定の給与所得がある場合には相応高額となるので。

〇 そして今年
 正月明け、旧職場の福利厚生担当から打診の電話があった。来年度も共済組合の任意継続を続けるか否かについて。もっとも退職後の任意継続は2年までなので、継続できたとしても最後になる。
 この際、国民健康保険に切り替えるかどうか。

 結論から言って、国民健康保険に切り替えることに。
 理由は、いずれ国民健康保険に加入することが必要となる上、前年度の収入が前々年度より少なく、保険料が任意継続より低額となるため。

 そこで、1月末、国民健康保険加入の相談のため、区役所へ赴いた。

 保険料は前年の収入がベースとなる。ベースとなる前年の収入は、①年金、②前年3月までの役所常勤時の給与所得、③4月以降のアルバイト所得となる。
 その際、係の方に質問した。来年度については、上記所得のうち②が無くなることもあり、ベースとなる前年収入額が違ってくるので、毎年のように加入手続が必要となるのかどうか。
 これに対する係の方の回答は、「毎年の所得額については、税務当局から通知があり、当方でも把握できて保険料を算定できるから、その必要はない。」とのこと。 

 毎年、面倒な手続が不要と分かって安心したが・・・しばらくして気付いた。 
 「税務当局から通知がある」? 税務当局はどのようにして所得を知り得るのか・・・
 もしかして「確定申告」とやらの税務手続が必要となるのでは・・・
 これが、確定申告の手続の必要性を気付いたきっかけ(余りに世間知らずかもしれないが) 

 

【リタイア後の確定申告】

 サラリーマンなら誰しもそうであろうが、それまで、確定申告をした経験がなく、あわてて、国税のホームページ等を見て調べ始めた。

〇 年金受給者の「確定申告不要制度」
 国税のホームページに「ご存じですか?年金受給者の確定申告不要制度」というページがあった。
 「申告不要!!」 見出しだけで軽率にもホットしてしまったが・・・。
 よくよく詳しく見てみると、年金受給額が400万円以下の場合は申告不要であるが、昨年中に20万円を超える給与所得等がある場合には、確定申告が必要とのこと!!!。
 アルバイトの給与所得もあるが、特に昨年は、3月末までの再任用としての役所常勤時の3か月間の20万円を超える給与所得がある。

 確定申告の手続は難しそうでやりたくない、何とか不要にならないのか・・・あきらめかねない気持ちが抜けきれなかった。

 ところで、確定申告の時期はいつなのか?
 恥ずかしながら、このようなことも知らない状況。国税HPによると、今がまさにその時期であり、2月16日から3月16日までが申告期限とのこと。良かった、この点では安堵。

 そこで、気を取り直して、知ってしまった以上は仕方がないので申告手続を勉強することに。

〇 申告方法の選択(パソコン申請は難しそう)

 国税のHPでは、詳しい申告・申告書作成の手引き等が掲載されている。そして、やたらと「eーTax」の利用ということで、パソコンやスマホによる申告の勧めが頻出。
 しかし、手引き等を少し覗いてみたが、確定申告の経験のない者にとって、また、PCやスマホの扱いに慣れていない者にとっては、正直言って難しい。
 各地に設けられる集団申告会場もあるようだし、各税務署においても予約制で相談を受け付けるとあるので、早速、最寄りの税務署の相談を予約(たまたま、予約受付期間内の時期であったもの。)。

 ちなみに、この税務署の相談予約手続をする課程においても、しきりに「eーTax」の利用を勧める記載や選択肢が出てくる。
 国税にすれば、この時期の窓口対応はよほど大変なのだろう。

〇 証拠書類を捨てずによかった

 年度末にかけて、年金や給与所得の「源泉徴収票」とか、生命保険の「控除証明書」等が次々と送付されていた。
 これらの書類は、当たり前だけれど、確定申告の証拠書類となるもの。
 しかしながら、これまでのサラリーマン人生では、「源泉徴収票」は使用することもなく、「生命保険控除証明書」は年末調整時に勤務先の福利厚生担当に提出していただけであった。必要性等の意識が低かった、あるいは無いに等しかった。
 このため、送付されてきても、その時点では確定申告を行うとは露にも思っていなかったので、特に必要との認識は無かった。捨てようとも思ったが、やはり、念のために封筒の中に放り込んで残してはあった。
 結果としてよかった。再発行はしてくれるのだろうけれど、面倒だったろうし。 

〇 申告の準備(証拠書類の整理)

 税務署に相談に行くに際し、国税のホームページをザっと見て、また、手元に残してあった証拠書類とおぼしき書類等から、申告に必要な事項を確認し、その証拠書類を整理しておくこととした。

① 所得の源泉徴収票(①年金、②前年3月までの役所常勤時の給与所得、③4月以降のアルバイト所得)

② 生命保険料・地震保険料の控除証明書

③ 介護保険料の納付済額の通知書

④ 医療控除のための領収書(今年は歯科医で入れ歯を作ったので医療費が10万円を超えていたため)

⑤ ふるさと納税の寄付証明書(確定申告不要のワンストップ特例申請はしていたが、念のため準備した。)

 

【税務署での相談・申告】

〇 税務署訪問

 最寄りの税務署は、実は自宅から徒歩1分の所にある。ここに3年前に越してきたときには、確定申告をすることがあるとも考えておらず、訪問することがあるとは思っていなかった。


訪問した最寄り税務署

 税務署での相談予約時間は2月3日の10時から10時半。
 10分前に赴いたが、税務署の中は多くの来庁者で混雑していた。
 係の方にスマホの予約画面を提示したところ、整理券を渡され、とりあえずは大勢の来庁者と共に待機場所で待ってほしいとのこと。
 待機場所は、折り畳みの椅子が並べられ、コロナ予防接種の会場のような設営。

 国税のHPでは。この税務署における相談は、予約制に限るような書きぶりだったが、様子を見ていると、飛び込み来庁者が多くいるようだった。
 少し待たされるかなと覚悟したが、実際の相談順は、予約者を優先して案内していたため、予約時間内の10時半前には呼び出された。

〇 申告の相談

 相談場所は、立ち食いうどんか立ち飲み屋のようなカウンター。立ったままで相談指導が行われた。
 税務署も非常臨戦態勢なのか、通常の担当職員以外の職員も多く応援に就けられている様子。来庁者に対応中の若手職員がベテラン職員に質問しながら対応している様子も散見された。
 私の相談に当たってくれた女性職員も、そうしたベテラン職員のようで、私の対応中にも、一時的に対応をストップして、他の職員の相談に応じていた。

 持参した所得や控除対象の証拠書類を提示したところ、職員の方で、その証拠書類を確認・取りまとめながら、「入力整理表」と題する用紙等に必要事項を記載。
 更に、提出した書類等を整理表にホッチキス止め。

 その上で、今日は相談に止まらず、スマホによる申告を終えてしまうということで、申告書作成担当の職員に引き継がれた。

 引継ぎの待ち時間の間、スマホ申告マニュアルを渡され目をとおしておくようにと。しかし30ページ程度あるもので、その場で理解できるようなものではなかった。

〇 「eーTax」スマホによる申告書作成

 スマホによる申告書の作成方法は、①マイナンバーカードを利用する方法と、②ID・パスワード方式があるとのこと。そのときは、②の方法により行うとのこと。
 このため、先ずは、ID取得のための手続(パソコンによる氏名やパスワード等の入力)が行われた。
 ちなみに、このID・パスワードを使用して、来年以降も「eーTax」による確定申告ができるとのこと。

 渡されたID・パスワードの控え

 その後は、担当者の指導に従うまま、スマホに必要事項を打ち込むだけ。
 しかし、入力事項が多いので10分以上は要したかもしれないが、それだけで申告が終了した。

 ちなみに還付金は約3,000円とのこと。

 最後に、作成済み申告書をスマホのファイルに保存してくれた。
 また、証拠書類等は提出不要とのことで返却された。5年間は手元で保存しておいてほしいとのこと。 

  
返却してくれた入力整理表と証拠書類等。入力整理表を台紙にして紙に証拠書類がホッチキス止めされてる。

【確定申告を終えて】

 税務署を後にしたのが、11時前で、訪問してから1時間で申告を終えることができた。
 今回、スマホによる申告を終えたが、これも税務署職員の手取り足取りの指導のおかげであって、やはり、一人で行うことは無理だったように思う。
 税務署の職員も、高齢者にスマホによる満足な操作や申告書作成は期待できないと考えておられるようで、手取り足取り指導してくれたものと思うが、正直助かった。

 今年の経験で、申告には、どのような事項が必要であることも分かったので、もしかしたら自分でスマホ申告も可能かもしれない。
 が、難しければ、これまでは縁のない役所であったが、思ったより敷居は低かったので税務署に赴きたい。

 ちなみに、数日後に本屋に立ち寄ったところ、なんと「確定申告」の特設コーナーが設けられていた。
 ただ、私のような個人申告の場合は、ノウハウ本に頼らなくとも、税務署の指導で十分対応できると、今回の経験で思った。

 

全国一の宮巡り 京都・下鴨神社(令和5年2月11日)

〇 日帰り京都寺社巡り

 建国記念日の祝日(もっとも私は毎日が祝日だが)、夫婦で京都へ寺社巡りに出かける。最初にママさん希望のパワスポとしての高雄山神護寺と、二条城の南に位置する神泉苑を訪れる。
 そして、その後に一の宮下鴨神社を参拝。
 このような訳あって、場所的には、とりとめのない寺社巡りとなったのだが。

 
 神護寺山門(左の写真)と神泉苑(右の写真)
 神護寺弘法大師ゆかりのお寺である上、紅葉の名所として超有名。しかしながら、この冬季の時期は訪れる人も少なく、森閑とした落ち着きがあり、悪くなかった。

〇 下鴨神社

 全国一の宮巡り、三つ目の参拝神社。
 京阪の出町柳駅(地下駅)から、鴨川に合流する直前の高野川に架かる橋を渡れば、そこが下鴨神社の参道入口。
 「糺(ただす)の森」にある真っすぐな参道を北に進めば大鳥居・楼門を経て御本殿へ。この参道は約500Mくらい。競馬場の正面直線ほどの距離に思えた。
 もっとも、この参道と並行して同じ長さの馬場があり、葵祭の際に、鏑流馬神事のために馬が疾駆することは有名。

   
 糺の森の参道(左の写真)と楼門(右の写真)

 上賀茂神社で購入した「全国一の宮御朱印帳」では下鴨神社御朱印欄が、上賀茂の次の二番目に設けられている。

 「下鴨神社」の正式名称は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」。神社のパンフによれば、神社名の由来は「鴨・賀茂とは、神ということ。御祖とは、親のこと。親神をお祀りしているという意味」とある。鴨川の下流に祀られているため、通称が「下鴨神社」とされている由。

〇 ラグビー神社・雑太社

 糺の森の中に末社の一つとして雑太社(さわたしゃ)がある。
 通称が「ラグビー神社」。拝殿の前には、日本ラグビー始まりの地としてのラグビーボールの形の記念碑がある。また、ジャパン代表選手のサイン入りユニホーム等も掲示されている。
 説明掲示板によれば、明治43年9月10日、社前の糺の森(馬場)において、初のラグビー練習が第三高等学校(京大の前身)と慶応義塾大学生の間で行われ、それが契機となって日本ラグビー界の歴史が始まったとのこと。